旧柳生藩家老屋敷

道の西側に見える豪華な石垣は、もと柳生藩財政の立て直しをした家老小山田氏の屋敷で石垣に天保12年(1841年)尾張石工が築いたと記されています。昭和31年に人の手に渡りましたが、昭和39年作家山岡壮八氏の所有となり、昭和46年放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」もここで構想が練られました。昭和55年山岡壮八氏の遺志により遺族山岡賢二氏夫妻から奈良市へ寄贈されました。奈良市は、昭和56年これを修復し主屋の一部に資料を展示、一般に公開しました。現在ここに柳生観光協会があります。



柳の森

柳の森は、柳生の地名の元になった場所で、大昔、ここに誰かが杖を立てておいたところ、やがてそれが柳の大木となりそこから柳生という地名になったという伝説の場所で、「柳の森」と呼ばれるようになりました。「柳生」は大化の改新の頃には「楊生郷」という字が使われていましたが、南北朝時代に後醍醐天皇に味方して敗れ、建武の中興で復活して、以降、「楊生」から「柳生」に変わったと考えられています。



十兵衛杉

柳生十兵衛三厳が諸国漫遊に旅立つ前、先祖の墓地に植えたものだとされています。樹齢は350年ほどになりますが、昭和48年に二度の落雷により、枯れてしまい、現在は2代目が横で大きくなっています。




旧柳生藩陣屋敷跡

寛永14年(1642年)年に柳生宗矩が3年をかけて建てた柳生藩の陣屋跡です。「柳生藩日記」によると、その坪数は1374坪(454㎡)表は竹の枝門であったと記されています。その後、宗冬に増築整備されましたが、延享4年(1747年)の火災により全焼し、仮建築のまま明治の廃藩により姿を消しました。昭和55年6月に史跡公園として整備されました。



柳生花しょうぶ園

柳生陣屋跡近くにある花しょうぶ園は、1万m2の広大な土地に期間限定でしょうぶ園が開かれます。約80万本460品種のしょうぶがあり、一面の緑の中に青や紫、白や黄のしょうぶやあじさいが咲き乱れ観光客の目を楽しませています。
開園/6月上旬~下旬
開花お問い合わせ:0742-94-0858

別途、柳生花しょうぶ園ページで詳細を紹介



摩利支天山

柳生十兵衛の弟、宗冬は、柳生に柳生八坂神社を造成し、石の鳥居を寄進してその横の丘に武道の守り神である摩利支天を祀りました。今は、祠は無いのですが、摩利支天の石のレリーフを2009年に復元しています。

摩利支天山からは柳生の町並みが一望できます。



神護山芳徳禅寺

柳生の里を一望の元に景観できる山上にある柳生家の菩提寺です。江戸初期(1638年)に柳生宗矩が父の菩提を弔うために、親交のあった沢庵和尚を開山として建立されました。本堂には本尊の阿弥陀如来を中心に、左右に柳生宗矩像や沢庵和尚像が安置されています。また、隣接する史料室には柳生藩の資料が展示されています。

拝観料:200円





柳生家の墓

柳生家の墓地は元々は月吹山中宮寺(現・奈良市柳生下町)にありましたが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基余りが並んでいます。




正木坂剣禅道場

芳徳寺のすぐ下には柳生十兵衛が延べ約一万人ともいわれる弟子を鍛えたと伝えられる正木坂道場の名を受け継く剣道場があります。柳生新陰流の精神「剣禅一如」に通じる剣道と座禅の道場で、昭和40年、当時の住職・橋本定芳氏の尽力で建立されました。もとは興福寺別当一乗条院にあった奈良地方裁判所の屋根部分と柱を移築し、正面入口は京都所司代の玄関口を移設し新調された道場です。



柳生城(古城跡)

芳徳禅寺の南東部にみえる山頂部分が柳生城跡です。遺構は、郭、堀切、土塁、などが残っています。



天乃石立神社

柳生町の戸岩谷にある神社で本殿を持たず四つの巨石が御神体として崇められています。伝承では、手力雄命(たぢからおのみこと)が、天岩戸の扉を引き開けた時に、力余って、ここまで飛んで来た岩戸の扉であるという伝説があります。柳生家の修練の場とも呼ばれ、歴代柳生家の崇敬があつかったといわれています。



一刀石

戸岩谷にある約7m四方ほどの巨石で中央から2つに割れています。柳生石舟斎宗巌が修行中にこの戸岩谷にわけ入ったところ天狗がいたので、その天狗を宗巌が一刀のもとに切り捨てたところ、巨石を2つに割っていたもので、これを後世「一刀石」と呼ぶようになったと伝えられています。



剣塚(古城山)

元弘の乱(北条の軍が後醍醐天皇を笠置山に攻めた時の乱)の時柳生永珍が立て籠り、笠置山の食料補給に努めたところと言われています。この山頂には剣塚があり、十三振の日本刀を奉安し、剣の霊を祀っています。これは、添上郡七か村の在郷軍人会の発起によるもので、満州事変に際し皇軍の武運長久を祈ったものです。また、古城山の名のとおり、剣塚周辺は古城跡であり、L字型の堀切などの城跡がはっきりと残っています。



阿対(あたや)の石仏

右側の阿弥陀如来は、流行病よけの願いを聞いてくれるといわれており、多くの人たちに信仰されています。鎌倉末期の作と言われています。向かって左側の地蔵菩薩は、豆腐をお供えすると、子供が授かると言われており、授かったときは、一千個の数珠を作り、お礼詣りをします。

地蔵の近くには、数珠だけでなく、数珠の代わりとして千羽鶴も供えられています。室町時代の追彫と考えられ、右肩に「源祐」の刻銘があります。



歯痛地蔵

大昔、柳生の隣村である大柳生阪原に才智に長け、田畑を多く所有し、その財力と才智で水路を開いた庄屋 斉藤甚蔵がいました。柳生藩主は彼の才能を恐れ、無実の罪をかぶせて処刑に処した際に、甚蔵は「三年の間に柳生を灰にする」と言って死にました。藩主はこれを恐れて毎夜不審番を警戒しましたが、三年後の最後の晩に、陣屋は火事となり灰になりました。藩主はおおいに恐れて、陣屋跡の自然石に供養の為に石仏を刻んだと伝えられています。



疱瘡(ほうそう)地蔵と徳政碑文

「ほうそう地蔵」の右下に「正長元年ヨリサキ者、カンヘ四カンカウニ、ヲヰメアルヘカラス」と刻まれており、大正年間に地元柳生町の郷土史家杉田定一氏により、「正長元年(1428年)以前の神戸四箇郷(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地)の借金は取り消された」と徳政の記念碑文であることが明らかにされました。室町時代の土一揆によって行われた債務の放棄(徳政)について民衆側が刻み残した資料として歴史的価値の高いものです。



寝仏(夜泣き地蔵)

疱瘡(ほうそう)地蔵に向かう柳生街道(東海自然歩道)沿いにある阿弥陀如来像です。桃山時代の作風と言われています。



中村六地蔵

疱瘡(ほうそう)地蔵に向かう柳生街道(東海自然歩道)沿いにあります。像脇に室町時代「明応十年(1501)酉辛三月十四日」の銘があります。



もみじ橋

芳徳寺の旧参道につながる朱塗の橋で、この近くに柳生石舟斎宗巖(せきしゅうさいむねよし)の家があったといわれています。



柳生八坂神社

もと四之宮大明神と呼ばれ、奈良春日大社の第四殿比売神社を祀っていましたが、承応3年(1654年)柳生宗冬が大保町にある八坂神社の祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)の分霊を勧請して社殿を造営し、八坂神社と改めたものです。境内の拝殿は天之石立神社の能舞台を移したものです。



柳生下塚古墳

奈良県最北端の古墳です。茶畑の中に横穴式石室が開口しており、玄室は高さ2.7m、奥行き3.6m、幅1.8mあります。築造は古墳時代後期(7世紀頃)で、柳生宗厳がこの塚にあった刳抜式家型石棺を取り出して手水鉢にしたと柳生家の家譜である『玉栄拾遺』に記録があります。そのため石舟斎と号したと伝えられています。